チベット仏教の扉を開く・下
チベット仏教の特色と日本人がそれを実践することの意味
 
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チベット仏教の扉を開く・上
 雑誌「大法輪」(発行:大法輪閣)の平成10年7・8月号に掲載された、事務局長・齋藤保高による記事の連載第2回目です。
 前号では、チベット仏教の特色を概観し、それを踏まえたうえで、チベット仏教が現代日本人にもふさわしい宗教である点を指摘しました。

 私たちの人生には、宗教の力を必要とする局面が数多くあります。けれども、人々のそうした要求に既存の宗教が十分対応できていないと、悪質な偽物の宗教が蔓延する余地を生じてしまいます。そのような状況を巧みに利用して、オウム真理教は、ヒンドゥー教やチベット仏教の教義をつまみ喰いしながら勢力を拡張しました。しかし、正しいチベット仏教を少しでも知れば、本質的な部分に於て「チベット仏教とオウム真理教は正反対である」ことがよく理解できるはずです。

 

●本当のチベット仏教とは

 少し脱線しますが、この点に御関心をお持ちの方も多いかと思いますので、私なりの考え方を簡単に述べておきましょう。必ずしもオウム真理教と特定しなくてもよいのですが、「チベット密教」の仮面を被った偽物の正体を見破る判断基準を、以下六点に渡って説明したいと思います。

  1.  教えを学んだり修行を行なうのは、あくまで本人の自主的な意思によるべきことを、まず強調しておきましょう。強引な勧誘やお布施の強要など、いかなる理由で正当化しようとも、仏教の趣旨から外れています。チベット仏教では、自発的に正しい動機を形成し師僧に教えを請うこと自体、修行の一過程として位置づけているのです。
     だから、終末思想を説いて恐怖感を煽り、入信や出家へ誘導するようなやり方では、本人が正しい動機を形成する機会を奪ってしまうことになります。

  2.  チベット仏教では、師僧に対する信仰や帰依が重要であることを、しばしば力説しています。しかし、だからといって、盲信は絶対に禁物です。師僧の教えの内容をよく吟味して、自分で考えて十分に納得し、それから実践へ入るべきなのです。前にも触れたように、このことは、お釈迦様御自身が厳しく戒めています。ですから、健全な批判精神を失ってしまったら、もはや仏教徒とはいえません 。
     弟子の自由な思考を封じ込めるような宗教指導者は、極めて要注意です。洗脳によって教義を押しつけるやり方は、絶対に許されません。

  3.  中観哲学を正しく理解し、思想的な支柱とすることも、大切な留意点です。これは世俗の善悪を尊重するという立場にもつながります。
     中観思想は、「最高神」とか「心の本質」といった概念に何ら実体性を認めないので、世俗の善悪を超越してこれらの概念に執着する態度は否定されます。例えば「神の意思なら、人を殺してもよい」とするような発想を生じる余地は、皆無だということです。
     また業の因果応報については、虚無的に因果を否定する立場、及び運命論的に業を絶対視する立場の両極端とも退けるべきです。人類社会の未来は、まさに私たち一人ひとりの、現在の行ないにかかっています。因果関係を無視して、予言などが成立する余地は、理論的に全く存在しません。

  4.  実践面では、「道次第」という正しい指針に従い、その路線から外れないように修行することが大切です。密教といえども、あくまで仏教全体の教理の枠組みを尊重し、大乗仏教の原則に基づいて実践しなければなりません。これが、「道次第」思想の立場です。
     ところがオウム真理教では、いわゆる「タントラ・ヴァジュラヤーナ」(密教)を、「マハーヤーナ」(大乗)から超越した段階と位置づけ、「タントラ・ヴァジュラヤーナの修行者は、目的のために手段を選ばない」などと考えていたようです。これは大変な誤解であり、非常に危険な結果をもたらします。現にオウム真理教では、地下鉄サリン事件などを正当化する理論的根拠として、この考え方を採用していたようです。
     チベット仏教の「道次第」思想を正しく理解していれば、こうした誤りを犯すことは決してあり得ません。

  5.  瞑想で時々体験する「光が見えた」というような神秘的な幻覚を、密教の究極的な境地と勘違いしてはいけません。こうした幻覚は、LSDなどの薬物によっても、容易に体験できるそうです。薬でも体験できる単なる幻覚が−たとえ瞑想の力で得られたとしても−解脱や覚りと同じはずはありません。
     オウム真理教に限らず、密教や瞑想の好きな人たちの一部には、こうした神秘体験に憧れる傾向が強く見られます。人々の心に巣喰う神秘体験への憧れは、精神の免疫不全のようなものであり、「密教」の仮面を被った偽物に対する抵抗力を奪ってしまいます。これを放置していたら、第二、第三のオウム真理教の出現を許すことにもなりかねません。だから私は、この点について、特に警鐘を強く鳴らしたいと思うのです。
     それでは、本当の密教の瞑想はどのようにするのかといえば、経典に説かれた内容のとおり、正しく観想を展開することが第一です。本尊の身体の色、顔の表情、手の形、持ち物などを正確に思い起こし、心の中へ曼荼羅を描いてゆきます。その姿かたちが象徴している教えの中身についても、考えを巡らさなければなりません。そして、空性(あらゆる存在に実体性がないこと)を瞑想しつつ、自分自身と本尊とを一体化させます。それによって、瞑想の中で本尊の境地を体験することができるのです。
     初めのうちは、そのことを意識的に努力する必要があります。やがて習熟するにつれ、自然に観想できるようになるはずです。このように正しい過程を踏んで瞑想を続けた結果、心身に何らかの変化が生じたというならば、それは修行の成果として認められるものかもしれません。しかしそうではなく、突然に光が見えたり、仏の声を聞いたり、何か不思議な気分になったりする…といった現象は、ほとんどが幻覚であり、修行の妨げとなるものです。
     弘法大師は、「陽焔喩を詠ず」という偈頌で、「瑜伽境界は、特に奇異なり。法界炎光、自ら相暉く。慢ずることなかれ、欺くことなかれ、これ仮物なり」と説いています。つまり、「瞑想の境地では特に不思議なことが起こり、仏の世界や光を見たりすることもあるけれど、それは修行者の妄執が生み出した幻覚にすぎない。そうした現象を覚りだなどと勘違いし、慢心を起こして、自らを欺いてはいけない」という意味です。
     このように、密教の修行で神秘体験に溺れることは−チベット仏教のみならず日本の仏教でも−真の聖者によって厳しく戒められているのです。妄想を膨らませて、自己満足の修行を繰り返し、神秘体験への執着を深める…。そのようなものは、仏道修行の名に値しません。

  6.  正しい修行を積み重ね、その結果でいかに高い境地へ到達しようとも、修行者としての立場を守り通すことが必要です。なぜなら、そのようにして、お釈迦様の教えを身をもって正しく伝えることが、今この世界で最も人々のためになるからです。

     チベット仏教史上第一の聖者であるツォンカパ大師は、この立場を厳格に貫き、偉大な御生涯を通じて修行者のあるべき姿を示し続けました。そして現在の最高指導者であるダライ・ラマ法王も、ツォンカパ大師に習い、いくら人々から「活き仏」と崇められようとも、「私は一介の仏教僧侶」と明言しています。およそチベットには、「解脱した」とか「覚った」などと自称する者は存在しません。

     また法王は、いわゆる超能力のたぐいにも、極めて懐疑的な見方を表明しています。超能力を売り物にするような宗教は、絶対に信用できないと思って間違いありません。

 以上、少し長くなりましたが、チベット仏教の立場から宗教の正邪を判断する一つの基準を提示してみました。それでは、話題を元に戻しましょう。人生には、宗教の力を必要とする様々な局面がある…という話でした。

 

●心の向上のために

 最近の日本の世相を見るにつけ、我が国の精神文化は、もはや地に堕ちてしまったという観さえ呈しております。中学生が年下の子供を殺害して首を切断したり、学校で先生を刺殺したり…といった異常な事件が、次から次に発生しています。ニュースにならない程度のいじめや暴力事件などは、青少年たちにとって、それこそ日常茶飯事のようです。

 そうなってしまった原因を、学校教育や受験競争のストレスに求める風潮もありますが、何といっても最大の問題は、他者に対する思いやり、自律、忍耐、努力といった徳目が著しく欠如している点でしょう。青少年たちの親の世代が、既に宗教から縁遠くなってしまい、子供の心を豊かに向上させる方法を知らないのかもしれません。

 もちろん、思いやりなどの徳目は、必ずしも宗教に頼らなくても、社会規範として子供たちに教えることができます。けれども、単なる道徳や倫理としてそれを押しつけたのでは、非常に薄っぺらな内容となってしまい、家父長主義的な権威が失墜した今日の日本社会に於ては、なかなか通用しにくくなっているようです。

 大人たちが作りあげた社会の醜悪な現実は、そうした道徳や倫理を粉々に吹き飛ばしてしまうほど、圧倒的な力をもっています。そのことを、子供たちは、実に敏感に感じとっているのです。

 しかし仏教では、思いやりなどの徳目を−単なる奇麗事としてではなく−非常に深い思索に基づいて、しかも極めて実践的に説いています。醜悪な現実世界の中にあって、なお心を向上させてゆく道を、様々な方法で説いているのです。

 インド各地の亡命チベット人学校では、この点を実にうまく活用し、チベット仏教による宗教教育を徹底しています。かつて私は、そうした学校を何箇所か見学し、少なからぬな衝撃を受けました。物質的、経済的に苦しく、しかも進学競争は過酷をきわめるという悪条件のもとで、生徒たちは心の優しさを失わず、人々のためになることを目指し、向学心に燃えています。その素晴らしさに感動しつつも、翻って我が国の教育事情を顧みたとき、暗澹たる気分にならざるを得ません。後日チベット亡命政府の文部大臣と面会したとき、私がこの点に言及したところ、「それは、亡命政府の教育行政が優れているからではなく、宗教の伝統のお蔭なのです」という答えが返ってきました。

 我が国では、学校教育はもちろんのこと、家庭に於てさえ宗教は蔑ろにされ、「人間の心を向上させる」という大切な役割りを果たせなくなっています。今や地に堕ちてしまった日本の精神文化を力強く再生させるためには、やはりどうしても、宗教の力が必要です。宗教の側も、伝統的な価値を損なうことなく、しかも現代社会にうまく適応し、その中で積極的に重要な役割りを担ってゆくという覚悟が必要でしょう。

 

●死と老いへの準備のために

 宗教の力を必要としているのは、何も若い人たちだけではありません。人生の様々な出来事の中でも、特に「死」という問題は、経済力や科学技術では何ひとつ解決できません。医学の力によって、死を少しばかり先へ延ばすことはできるかもしれませんが、最終的には死を避けることなど不可能です。だから、少なくともこれだけは、宗教の力がどうしても必要とされる分野です。

 中でもチベット仏教は、死と積極的に取り組み、修行の手段にさえ取り入れています。熟達した密教の修行者にとって、死とはまさに覚りへの絶好のチャンスであり、そのような場合、死の恐怖は完全に克服されているのです。もちろん、普通はそこまでなかなか達成できませんが、それでも死に対処する具体的な実践方法は、修行者の能力に応じて豊富に提示されています。

 こうした事柄は、社会の高齢化が進む我が国でも、お年寄りたちの「生きがい」という点で、非常に示唆に富むものだろうと思います。

 私は、インドの亡命チベット人社会で老人ホームを訪れましたが、チベット人のお年寄りたちには、老いの悲愴感といったものがあまり感じられません。もちろん、病気など様々な悩み苦しみを背負っている人は、決して少なくないはずです。しかし、精神的には非常にしっかりしていて、あまり塞ぎ込んだりしません。ボケなども、ほとんど見られないようです。

 そしてお年寄りたちは、宗教活動に日々の生き甲斐を求め、望ましい形で死を迎えられるように心を高める努力を続けています。暇を見つけては勤行に励み、ダライ・ラマ法王の長寿、世界の平和、全ての人々の幸福を祈り、それを修行に転じて自らの心の向上も目指すのです。亡命チベット人社会各地の老人ホームや村の集会所で、しばしばそうした光景をまのあたりにして、私はとても深い感銘を受けました。

 

●日本にチベット仏教寺院を

 以上いろいろなことを申し上げて参りましたが、それらを全てよく考慮するならば、チベット仏教の実践的な流れを日本で伝えてゆくのは、とても有意義なことであると結論づけられます。

 しかし、チベット仏教独特の壮大なスケールの発想、そして絶妙なバランス感覚を正しく伝えるのは、非常に困難な仕事です。書物や通り一遍の講演だけでは、なかなか難しいでしょう。一方通行の教えは、自分勝手な解釈を生み出してしまいます。教えを自分の都合のよいように解釈していたら、教理と実践の体系を正しく把握できないので、何ら善い結果を得られません。これを防ぐためには、長期に渡って学習を継続し、質疑を通じて理解を深め、指導を受けながら実践を積み重ねてゆく必要があります。

 そのためにはやはり、チベット仏教を伝道するきちんとした団体を設立し、寺院やセンターを建て、それら拠点に本格的な宗教活動を展開するしかありません。日本でチベット仏教を伝える以上、経典類は日本語に翻訳する必要があります。経典を翻訳して日本語のテキストを作成し、我が国の実情に合った学習と実践のプログラムを確立することが不可欠です。そうした仕事も、寺院やセンターを拠点とするならば、徹底して進めることができると思います。

 現在、本来のチベット仏教圏と亡命チベット人社会を除いても、世界各地にチベット仏教の寺院やセンターが数多く建てられています。しかし、日本にはいまだ一箇所もありません。この残念な事実と、また逆に日本国内で他の様々な外来宗教の施設が建設されている現状を考えるならば、チベット仏教の寺院やセンターが一箇所もないという現状を放置しておくわけにはゆきません。

 こうした諸議論の結果として、我が国でチベット仏教を伝道する団体を設立し、さらにチベット仏教寺院やセンターを建立することは、極めて有意義であり、かつ切実に待望されるものだと明確に申し上げられるでしょう。  

                                 (終)



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