●今なぜチベット仏教か
西洋の登山家と少年期のダライ・ラマとの心の交流をテーマにした映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」が大きな反響を呼ぶなど、チベットとその宗教に対する関心の高まりは、今や世界的な潮流となっています。伝統ある仏教国の日本でも、何らかの形でチベット仏教に興味を抱く人々は、着実に増加しているようです。けれども、それがテレビ番組や映画などを契機とした一時的なブームであれば、間もなく沈静化して後には何も残らないはずです。
チベット仏教の場合も、これまでに何回か、マスコミなどで話題の集中する時期がありました。ところが、一つ一つのブームが去った後でも、なお関心をもつ人々の裾野は広がり続けています。それがまた、次のブームへつながってゆく…という図式が、最近すっかり定着しているようです。このような流れを見れば、もはやチベット仏教を、単なる一過性の流行として片づけることはできません。
そして、例えば「チベットの死者の書」の死生観に驚くとか、砂曼荼羅を見てインスピレーションを受けるとか、そういった次元を卒業して、より本格的にチベットの仏教を学んで実践してみたいと願う人々が、最近とみに増加しています。このような傾向は、日本でチベット仏教を紹介する活動を続けてきた私たちにとって、大変喜ばしい限りです。
しかしながら、一つの宗教の流れを伝えるという重大な仕事に手を染めた以上、日本人がチベット仏教を学んだり実践する意味について、明確にしておくことを忘れてはいけません。もともと日本には、立派な仏教の伝統があります。それなのに、わざわざ日本の人々がチベット仏教の世界へ入ることは、一体どのような意味があるのでしょうか…。この点について、今から説明して参りたいと思います。
●2つの正しい仏教
まず最初に、強調して申し上げたいことは、「チベット仏教も日本の仏教も、両方ともお釈迦様の教えを伝える正しい仏教だ」という点です。「どちらかが正しければ、もう一方は間違っている」というような関係ではありません。ですから、例えば「私は日本のお寺の檀家になっているので、チベット仏教の教えは受けられない」とか、「チベット仏教の修行をやるには、日本の仏教の信仰を捨てなければいけない」などということは、全くありません。両方とも正しい仏教なのですから、それぞれの良い面を取り入れて、両方を同時に信仰し、勉強し、修行することができるのです。
日本の仏教の歴史を顧みれば、そもそも仏教自体が外国−中国大陸や朝鮮半島−から入って来たものです。それも一度だけではなく、いろいろな時代に様々な教えを外国から取り入れています。その結果、今では「伝統仏教」として知られるような各宗派が成立したわけです。つまり、いろいろな時代に外国から教えを導入したことによって、日本の仏教の全体がだんだん充実し、日本人に適した教えの体系が出来あがったといえるでしょう。このように、中国などから教えを導入することは、主に飛鳥時代から鎌倉時代にかけて盛んに行なわれましたが、もっと後の江戸時代にも少しはありました。
ですから、今度は平成の時代にチベットから仏教を取り入れても、ちっともおかしいことではありません。江戸時代までは、外国といっても中国や朝鮮しか念頭になかったわけですが、今はもちろんそんな時代ではありません。それだからこそ、もっと視野を広げて、今まで取り入れることのできなかったチベットの仏教を導入するチャンスなのです。それによって、日本の仏教の全体が一層充実し、日本の人々のためになることは間違いないと思います。いま私たちが、チベット仏教を紹介する活動を行なっているのも、こうした枠組みを念頭に置いてのことです。
今日チベット仏教は、その根拠地であるチベット本土を中国に支配され、とても困難な状況に置かれています。その点を日本の社会で問題提起し、チベット仏教を守ってゆく必要性を訴え、理解と支援を得るために努力する…。そういったことには、もちろん重要な意味があるかもしれません。
しかしながら、私たちはもっと大きな目的として、「日本人のために役だつ」ということを真剣に考えています。もし仮に、チベット仏教が日本人にとって無益なものだとしたら、その教えを日本で広めたりするべきではありません。チベット仏教の置かれている苦境を説明し、支持や援助を要請するという、そのようなレベルの活動だけに留めておくべきです。けれども私たちは、「チベット仏教が日本の人々のために必ず役にたつ」と強く確信しているからこそ、敢えて一線を越え、チベット仏教の教えそのものを日本で広める活動に踏み込んだのです。
●チベット仏教の特色
それでは、チベット仏教が本当に日本人のために役だつか否か、それを検証するために、日本の仏教との比較を行なってみましょう。そうした過程を通じて、チベット仏教の特色が鮮明に浮かびあがってきます。ただ、そのような特色−つまり日本の仏教との相異点−がいかに際だっていたとしても、やはりチベット仏教と日本の仏教の根本は同じであり、それぞれの道を極めた聖者たちの境地から見れば、両方の間には何の違いもないはずです。まずこの点を、大前提として確認しておきましょう。
そのうえで、一般的なレベルから見るならば、思想哲学や実践修行の面に於て、チベット仏教と日本の仏教はかなり異なった様相を呈しています。それを私なりにまとめ、次の四点を指摘しておきましょう。
- チベット仏教は、インド仏教の流れを直接受け継いでいます。サンスクリット(梵語)の原典を−漢文よりも−正確に翻訳し、思想哲学や実践修行の面でも、インド仏教の伝統を忠実に踏襲しています。
- チベット仏教には、中国や日本へ伝わっていない教えが数多くあります。中でも、最高の思想哲学である中観帰謬論証派、及び最奥義の実践修行である無上瑜伽タントラの両者を擁する点は、チベット仏教最大の特色です。
- 仏教には、例えば小乗・大乗・密教といった具合に、一見相互に矛盾するような教えが数多くあります。チベット仏教では、「道次第」に基づいて、それらの教え全てを整合性ある教理体系にまとめあげ、実践の指針を提示しています。
- お釈迦様は弟子たちに、自らよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強く戒めています。チベット仏教では、こうしたお釈迦様の戒めを肝に銘じ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による思考を重視しています。
以上四点の特色をよく考えれば、チベット仏教は、「現代の社会に生きる人たちにこそ、ふさわしい宗教だ」といえると思います。その理由を、これから少し吟味してみましょう。
チベット仏教は、明快な論理による思考を通じ、中観帰謬論証派の思想哲学を徹底的に追求しています。中観哲学は、決して科学と矛盾するものではありせん。むしろ、科学技術が高度に発展した現代社会に於て、学識経験者たちがその価値が高く評価するようになってきました。現代人は、科学技術を拒絶して生きることが不可能だし、論理的思考を回避することもできません。科学や論理と矛盾しない形で、より深遠な人生の指針を提示してくれる思想として、中観哲学は再認識されつつあります。
中観思想自体は、日本の仏教にも伝わっていました。しかし、その究極的な解釈である帰謬論証派の哲学は、日本仏教の伝統に存在していません。一般的に日本の仏教は、インドやチベットの仏教ほど論理的ではなく、中観思想の心髄を哲学的に極めるという点に於て、いま一つ詰めが甘かったように思われます。
次のポイントは、慈悲心と利他行です。チベット仏教は、慈悲の精神を強調し、大乗思想に基づく利他行を究極の目的としています。修行者が思想哲学を勉強し、瞑想修行に打ち込むのも、全てこの究極の目標−一切衆生を輪廻世界の苦しみから救うこと−を実現するための方便と位置づけられるのです。慈悲と利他の教えは、世界平和や地球環境問題など、現代社会が抱える難問を解決する際にも、一つの方向性を見いだす鍵となるでしょう。
もちろん日本の仏教でも、伝統的に慈悲と利他の教えを説いており、インドの大乗仏教が強調する能救済思想は、建前として今日まで残っています。しかし実態としては、むしろ「自分が御本尊様に救っていただく…」という被救済思想が、主流を占めているようです。神仏に救いを期待するだけの信仰から一歩踏み出し、混迷を深める現代社会に適した形で慈悲と利他の教えを実践してゆくことこそ、私たちに課せられた責務だと思います。
続いて指摘したいのは、修道体系の存在です。チベット仏教の「道次第」は、人間の心を向上させるのに極めて効果的なシステムです。仏教のあらゆる教えを矛盾なく整理し、様々な経典の心髄を要約して示しているので、これを頼りに修行を進めることができます。特に難解な密教も、「道次第」思想に基づくならば、正しく理解して実践することが可能です。このような「道次第」の存在は、簡潔なマニュアルを好む現代人にとって、大変有り難いものだといえるでしょう。
日本の仏教には、チベット仏教のような「道次第」思想がなく、そのために小乗と大乗、或は顕教と密教の関係などについて、しばしば混乱をきたしています。「中観哲学に基づいて密教を実践する」という姿勢が、チベット仏教ほど徹底されていないので、大乗仏教の原理原則から離れて密教を解釈する恐れもあります。
チベット仏教の修道体系の頂点に位置づけられるのが、密教の最奥義たる無上瑜伽タントラです。日本の密教に、この無上瑜伽タントラの実践的な流れが全く伝わっていないことは、前に申し上げたとおりです。無上瑜伽タントラの精神生理的な瞑想修行法は、生命科学など最先端分野の学問領域でも、脚光を浴びつつあります。しかも、現代科学では手の届かない深遠な領域にまで踏み込み、心の本質に迫るものとして、科学万能主義の限界を越えられる点が注目されているのです。
以上の議論を簡潔にまとめれば、チベット仏教は、論理性と哲学、慈悲と利他行、平易な修道体系、心身の深層に働きかける瞑想などを兼ね具え、しかも絶妙なバランスを保っている宗教だと結論づけられます。そのような宗教は、これまで日本にほとんど存在しておりません。それゆえに、チベット仏教は現代の社会に生きる人々にふさわしい宗教であり、日本人がそれを学んだり実践する意味があるわけです。
●現代日本における宗教
今日の日本社会では、宗教の評判は、決してかんばしくありません。「理不尽な信仰を押しつける」とか、「金儲け主義に走っている」とか、マイナスのイメージがすっかり定着してしまったようです。そして、オウム真理教のように凶悪事件を引き起こすものや、霊視商法で詐欺行為を働くものなど、極端に反社会的な宗教団体の話題がマスコミを賑わしている昨今です。伝統仏教に対しても、「葬式仏教」といった批判が向けられています。そうしたことの結果として、多くの良識的な人たちが、宗教全体に対して批判的になっていると思います。
宗教の悪い面ばかり見せられて、宗教そのものを敬遠するようになってしまった人々に、私たちは是非、チベット仏教の真の姿を知ってもらいたいと思います。そして、人間の心を豊かにするための、人類の貴重な共有財産として、もう一度「宗教」というものの価値を見直して欲しいのです。
一般的に、人生の中では、宗教の力を必要とする様々な局面があると思います。そしてある人々は、人生の目的そのものを追求し、宗教の中に答えを見いだそうとしています。けれども、現代の人々−特に若い人たち−のそうした要求に対して、日本の既存の宗教が十分に対応できていないため、オウム真理教をはじめとする悪い宗教に身を投じてしまう人が続出しているのだと思います。これは、本当に残念なことです。
かつて私自身も、「何のために生きるのか…」といった人生の意味について、自分なりに色々と悩み、考えを巡らしてきました。そしてようやく、チベット仏教の教えの中から、一応の答えを見いだすことができたのです。
たまたまですが、私はこうして本物のチベット仏教に巡り会えたので、それはとても幸運だったと思います。しかし多くの人たちは、「チベット仏教的なもの」を漠然と探し求めつつ、なかなか正しい宗教に出会えないでいます。そして遂に、オウム真理教のようなとんでもない宗教にひっかかってしまうのです。
オウム真理教の麻原彰晃(本名:松本智津夫)被告は、自分の権威づけのため、ダライ・ラマ法王やチベット仏教を徹底的に利用しました。それは、皆様もよく御存じのことと思います。法王と謁見しさえすれば、誰でも撮らせてもらえるような記念写真を悪用して、麻原は「ダライ・ラマから秘儀を伝授された」などと嘘をついていました。私たちから見れば、全く馬鹿馬鹿しい話で、はた迷惑以外の何物でもありません。
けれども現実には、非常に多くの若い人たちが、それに瞞されてオウム真理教に入ってしまったのです。オウム真理教を脱会した元信者たちが、麻原のそうした宣伝に瞞されたことを後悔し、「悔やんでも悔やみきれない」と嘆く場面を、私自身何度も見聞しています。
だから私は、「もし本物のチベット仏教が十数年前に日本で広まっていたら、オウム真理教があれほど大きくなることはなかったのではないか…。ひょっとしたら、一連の凶悪事件も起きなくて済んだのではないか…」と思っているほどです。
麻原の宣伝の悪影響は、一般の人々へも及んでいます。「チベット仏教とオウム真理教は似ているのではないか」と疑い、その結果チベット仏教のことを悪く思っている人たちが、今だに結構いるようです。しかしそれは、とんでもない誤解です。正しいチベット仏教を少しでも知れば、本質的な部分に於て「チベット仏教とオウム真理教は正反対である」ことがよく理解できるはずです。
この点については、少し掘り下げて、次号で説明したいと思います。